ウクライナ軍領土奪還
ロシア残虐非道
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私は若い頃二人の恩人にめぐり逢いました。
一人は中国からの残留孤児の河野さん、もう一人は元憲兵将校の菱沼さんと言う方です。
それからこの将校の話を聞き大東亜戦争の正しさを知りました。私のこの独学精神がなかったら、私は大東亜戦争をよく知らないまま成長したでしょう。
この方からいろんな書物を借りて独学で学びました。
私の愛読書に―独学の勧め―と言う本があります。
私達はこの碑に参りしてウクライナ軍がこのロシを打ちのめすことを祈願してきました。
尼港事件、広瀬武夫中佐の墓標を参拝
5月下旬、『世界戦略研究所』の初合宿を福島で開催
5月下旬、『世界戦略研究所』の初合宿を福島で開催
尼港事件、広瀬武夫中佐の墓標を参拝
昨夜、福島に戻りました。ようやく東北新幹線が福島駅まで開通しました。今回紹介するのは尼港(シベリアのニコライエスク)で日露戦争後に起きた日露の一つの悲劇です。
大正時代に遡ります。この尼港に住む日本人民間人を含む700名が赤色パルチザンによって大虐殺された事件です。当時この地を守っていた守備隊長がこの写真にある福島出身者の石川中佐です。
私は23歳の時からこの碑の存在を知り5月に詣でてきました。この事件は5月24日に起きましたが、碑の裏には5月という文字が見えた。
記憶違いでなければ建立されたのが5月の日であったので、毎年5月の下旬には花を飾り墓参りをしていた。
実はこの碑は世界戦略の表紙にあるものとは場所が違う所にあった。立派な碑であり、東北自動車道路の飯坂インターの折口(入り口)にそびえていた。
ところが、いつの間にか消えてしまった。道路工事で撤去されてしまったと考えてもう何十年も忘れていた。しかし、今回この雑誌を見つけその行方を探したら、近くのお寺の墓に移動されてあったのを見つけた。雑誌にも2回ほど連載した。
しかし、当時資金不足のせいか、第三号で終った。資料を集めて書くことが無理になったのかもしれません。しかし、この取材した記事を今度の合宿までは小雑誌として作り上げたい。
Amazonで検索すると何冊かの本がでていた。どちらも新しい、おそらく私が最後まで書いていれば一番古い本として世に出せたと思う。
忘れられない、いや忘れてはいけない生き証人の言葉
本日は北方領土の日です。日本政府は北方領土の返還運動を盛り上げるために1981(昭和56)年にこの日を制定しました。しかし、現在、返還運動が盛り上がっているとは思えない。国民の間には諦めの声すら聞かれるほどである。
冷戦の崩壊で一時旧ソ連が経済の危機に瀕したことがった。スーパーマーケットからは食料品が消え、暴動寸前まで行ったのである。
思えばこの頃が日本としては交渉する絶好の機会だった。今、石油やガスの世界最大の輸出国となったロシアが、そう簡単に領土の返還に応じるとは考えにくい状況となっている。
今日は北方領土の日なので返還運動などについて書こうかと思ったが、これは別の機会に譲って、戦前の旧ソ連と日本との関わりについて述べたいと思う。いかにソ連は残虐な国家であり、日本はそれ故に祖国の防衛に神経を使わざるを得なかったか。
そのことについて、現在では余り話題にもならないが、連載で取り上げて見たいと思う。何故、世界でも最強といわれた関東軍60数万人は、ソ連との国境に対峙していたのか?戦うことなくシベリアに捕虜となって連行されたのか?この第2次世界大戦の最大の謎解きにもなるだろう。
私は福島県福島市生まれである。福島市といえば先ず年配の人が一番最初にあげるのは飯坂温泉である。かつては東北一の温泉街として有名であった。東北自動車道の飯坂インターで降りて温泉に向かうが、この丁度降り口に一際目立つ大きな墓標が立っている。
抜きん出て他を圧倒するかのような大きな墓標ではあるが、今はただひっそりと立っているに過ぎない。私がまだ23歳の頃、この墓標はいつも掃き清められ、一日として線香の絶える日はなかった。近くの温泉の下足番をしていた老人が、毎日足を運び供養していたからである。
彼の名字は菱沼さんと言った。当時70歳は確かに越えていると思った。彼は元憲兵将校で戦犯容疑を逃れ、各地の温泉場を転々としたが、最後にこの地を住居として定めたのは「石川中佐と尼港事件」に寄せる只ならぬ想いにあったからだ。
私はある時、この老人がこの墓標を掃除している姿を見て、非常に興味を抱き話をかけた。老人は多くの日本人に忘れ去られようとしていた尼港事件を私に教えてくれた。