2010年02月02日

坂本竜馬を共に語ろう。(2)

坂本竜馬を共に語ろう。(2)

黒船来航と青年志士の目覚めと決意

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 お約束したとおり、NHKの大河ドラマ『龍馬伝』や司馬遼太郎先生の小説「竜馬がゆく」を見ながら、幕末維新における若き志士たちの生き様を考えていくシリーズです。

 必ずしも史実にあわない部分もあるでしょうが、そこは大目に見ながらドラマや小説を楽しみつつ筆を進めることに致します。尚、志士というのは高い志をもって国家や民族の為に戦う人々を言いますが、その志とは如何なる時代においても同じです。

 現代社会においても、この幕末維新と同じように国家と民族の為に尽くす生き方をすることは可能であります。故にこのような幕末の風雲児・坂本竜馬を学ぶことは大切であると考えます。

 一昨日のテレビで放映されたのは、丁度坂本竜馬が土佐から江戸に入って千葉道場で剣術の腕を上げる為に入門した、坂本竜馬が19歳の頃の話でした。

 当時もいや現在においてもそうでしょうが、地方から若者が青雲の志を抱いて江戸・東京にやって来るというのは、その心境面においては相当な重圧であったと思います。

 しかし、それを余り感じさせない、元来生まれながらの明るさと言うか、物事に動じないそのはつらつとした若者の姿を福山雅治さんが好演していると思います。

 さて、この時に幕末維新の時代を告げる切っ掛けともなったペリー提督が率いる黒船の一団が日本にやって来ました。ドラマでも小説でも、この黒船騒動に巻き込まれていく様子を描き出しています。

 テレビで坂本竜馬の眼前に黒船が登場するシーンはさすがに迫力満点でした。このワンシーンは圧倒的な外国勢力の力を見せつけられた若者が、その威力にただただ驚いて我を忘れて立ちすくむというように描かれています。

 これは小説などでも同じであり、青年の心に与えた衝撃の強さと、そのような西欧列強の力への言い知れぬ恐怖は、これからの幕末維新にかけた志士たちの共通の気持ちだったのではないでしょうか。

 現代に戻れば、この黒船に当たるものがあるとすれば、私は忘れもしない一昨年の長野において行なわれた聖火リレーにおける支那人の傍若無人な振る舞いではなかったのか。

d820d61d.jpg この時に我々は日本に大量に住み着いてしまった支那人の恐怖を身体で感じ取った。このような連中がこれ以上増えたら、日本は間違いなく彼らに乗っ取られる。
 反対運動に参加した人たちの共通の思いでした。

 我々はいつからこんなに外国人によって取り囲まれて生活する羽目になったのでしょう。我々はそのようなことを了解したことなど一度もなく、気がついたら周りは支那人・朝鮮人によって埋め尽くされていたのです。

 正に現代社会はその意味では異民族によって侵略されようとしている、その恐怖によって支配された時代であり、幕末維新と変わらぬ時代背景が見られるのです。

 司馬遼太郎先生は、「竜馬がゆく」シリーズ一巻の中で次のように時代背景を綴っています。

「攘夷論がおこるのは、当然であった。個人の場合におきかえて考えてみればわかる。突如玄関のカギをこじ開けて見知らぬ者がやってきて、交際を強い、しかも凶器を見せながら恫喝をもってしたのである。ぺこぺこしてその要求にたやすく屈するほうが、人間としてどうかしている」

 これは現代の日本に通ずるものがあります。個人を国家に置き換えれば、突如として異民族が日本中に溢れかえり、異文化共生などを強い、しかも歴史認識などで難癖をつけ、謝罪と賠償を要求し、日本国家はそれに屈してきた。

 この閉塞感を打ち破るのはもう偽善的な議会制民主主義などではなく、維新行動への転換でしかない。我々はそれを固く信じるが故に前に突き進むのみである。

 話題は変わりますが、新宿公園における暴行事件の少年等を支持する人間のブログで下記のような文言が書かれてありました。

>よって私のブログの表題からもザイトクカイを外し、西村修平および瀬戸グループと書きなおす事にした。

 何ですかね、分断工作でもやっているつもりですか?

 私にしても西村代表にしても、「行動する運動」はお遊びでやっている訳ではない。「語る運動」から「行動する運動」を掲げ、事実上その発足大会となったのは靖国会館における「外国人参政権反対・人権擁護法案反対」集会でした。

 その時に私は運動にかける「覚悟」を語りました。その「気概」を示しました。それからこれまで一貫してその言葉を忘れたことなどありません。

 西村代表も同様でしょう。「語る運動」から「行動する運動」こそは、幕末維新を駆け抜けた志士の信念を受け継ぎ、そこに人生を賭けることに何らのためらいも迷いもない決意なのです。

お知らせ

 明日から日曜日にかけて各団体の様々な活動があるのでそれを紹介しておきます。

2月3日 「在日特権を許さない市民の会」主催の抗議行動
外国人参政権に賛成? 二枚舌政党自民党に怒りのシュプレヒコール!

2月4日 「外国人犯罪追放運動」法務省前抗議行動
不良外国人の実態を周知徹底

2月7日 よーめん親衛隊の説明会
求む!あなたの勇気
 
2月7日 そよ風 外国人参政権反対デモ行進
外国人参政権反対&重国籍お断り☆朝敵小沢と反日議員にお仕置きパレード♪


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2010年01月27日

明治維新と坂本竜馬の生き様 (1)

維新と坂本竜馬の生き様 (1)

坂本竜馬をこれから皆さんと共に語ろう。

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 私はNHKの番組では唯一大河ドラマだけは欠かさず見ています。今年は幕末の若き英雄・坂本竜馬を主人公にした『龍馬伝』が放送されています。

http://www9.nhk.or.jp/ryomaden/

 NHKのドラマのタイトルは「龍馬」となっていますが、私はブログでは竜馬と書くことに致します。
 私の場合、司馬遼太郎先生の『竜馬がゆく』を読んだのが坂本竜馬を知る最初でしたので、どうしても竜馬のほうがしっくり来ます。

 私はこれまで幕末維新に関する小説は二つしか読んだことがありません。その二つとも司馬遼太郎先生のものです。

 『新選組血風録』『竜馬がゆく』の二つですが、20代の半ばで一度読み、それから30代、40代で一回づつ読み返し、また今回50代で読み返しているところです。

 実は今読んでいて最高に面白い。何故ならばこのNHKの大河ドラマと同時進行で読んでいるからで、そこには今回の坂本竜馬を演じる福山雅治さんがこの『竜馬がゆく』の本で描かれている人物像にピッタリくるのです。

 以前、NHKで新選組の大河ドラマがありましたが、この時は香取慎吾さんが近藤勇の役柄で、どうもこの時には本を読み返したものの今回のようにはいかなかった。

 これは別に私が香取慎吾さんを嫌いとか好きだとかではなく、自分が本で読んで勝手にイメージした近藤勇像と違い過ぎたのでしょう。

 しかし、今回の坂本竜馬については福山雅治さんが演ずる坂本竜馬は司馬先生の小説の中に出て来る坂本像と一致するので、本を読み返していると、自然とその顔が浮かんでくるから面白いのです。

 司馬遼太郎先生が小説の中で描く若き坂本竜馬像とは一言では言い表すことなど出来ませんが、そこに一貫して描かれているものは、激しい気性でもなければ、野望に満ち満ちたものでもなく、ただ周りの人に優しい、それも心に沁(し)み通るようなやさしい目をした若者なのです。

 天下国家を論ずる時には激しいが、そうでない場合は何事に対してもやさしい気遣いを怠らない。そんな小説の中の坂本像は、ドラマの中で福山雅治さんが演ずる坂本竜馬とダブってくるのです。

 昨日は朝8時発の大阪行きの新幹線に乗り、また昼過ぎには東京に戻りましたが、この新幹線の列車の中で「竜馬がゆく」の(三)を読み切りました。

 (三)は坂本竜馬が既に29歳の頃を描いています。彼は33歳の生涯ですから、もう後わずかしかありませんが、まさにこれからが激動の人生の始まりです。

 現在のドラマは坂本竜馬が19歳の頃をやっています。江戸の千葉道場に剣の技を磨くためにやって来た頃で、今週はその19歳の時に黒船が日本に初めて来航し大騒ぎとなるお話です。

 これからドラマも本格的に幕末維新の激動期の中に入っていきます。一人の若き英雄が日本の運命を変えたのです。学問に秀でていた訳でもありません。

 確かに剣の腕は相当のものでした。しかし、坂本という若者は既にそれが時代遅れであったことを見抜いていた。彼は新しい日本を夢見て東西南北へと疾走を開始します。

 坂本竜馬とそれを取りまく若きサムライの生き様を見ながら、我々が今後の激動する日本と、それを取りまくこの東アジア情勢の中で、どのように生きていくべきなのかを共に語りあっていきたいと思っています。


※昨日の大阪行きは政治運動とは関係ありません。私の知人からの紹介で、大阪でオール電化のショールームが開設され、そこで料理教室が開かれることになりました。

 パンなどを料理するのですが、そこに私が今回販売しているリンゴジャムを使って貰えないかという話を通してくれた人がいたので交渉してきました。
 
 上手く交渉がまとまれば、手作りリンゴジャムがこの料理教室で使ってくれるようになるかも知れません。そうなれば大阪の人達もこちらで購入が可能となるかも知れません。

 そうなった時にはまたお知らせ致します。


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2010年01月10日

「保守・革命」でなく維新だ!(1)

「保守・革命」でなく維新だ!(1)

今求められている大変革とは維新である。


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 言葉というものは万人共通のモノのようで、実はその立場によっては全く違ってきます。
 同じモノを目指しているのに、保守だ、革命だ、維新だと言うように、それぞれの想いから違って来ます。

 又、厳密な定義付けをすることなく、言葉だけが先行してしまうと、お互いに目的が同じ筈なのに、その些細なことから抜き差しならない対立という思わぬ方向にも行ってしまいかねません。

 敵側はそのような言葉の違いにも鋭くこれを見逃さず、互いに対立しているかのように錯覚させる工作も行われます。先ず以て“言葉”とは多種多様であって、余り厳格にすべきではないと言うのが私の考えです。

 しかし、今後のことを考えれば、この点についても私なりの考えをここで披瀝することも必要ではないか。そのように考えたのでこのエントリーを何回かに分けて行います。

 又、このような話は文章だけではなく、話し言葉として説明・解説することも大事であると思いますので、今年は「現代維新講座」を出来る限り各方面において小規模の会合でも良いので開催していきたいと思っています。

 つい一昔前までは、保守と言えば自民党、革新や革命勢力と言えばこれは社会党・共産党の左翼勢力を指す言葉として使われて来ました。

 しかし、東京都の美濃部知事(当時)は都民が反対すれば、橋も道路も作らないという考えを表明した革新知事でした。直さない、いじらない、何もしない。このように考えるとこれは極めて保守的な思考であり、では革新性とは何なのかという疑問が当時投げかけられました。

 これは政治の世界の中における“保守”と“革新”という考えを、世間一般の思考力と混同することによって引き起こされた議論であると私は当時思いました。

 政治思想の世界では、保守的な思考を持とうが左翼は革新であり革命勢力と規定されて来たのです。では右翼は保守主義なのかと言えば、これはさに非ず維新勢力と自らを位置づけて来ました。

 では保守とはやはり現体制を保持するという自民党に相応しい言葉かと問われれば、私はそれは間違いではないと思います。難しく規定すれば益々こんがらがるので、これまで書いたような認識で筆を進めていきます。

 左翼の革新・革命論議はひとまず置いて、ここは保守と維新について考えてみます。守るべき価値観が何であり、それは守らなければならない。そのような立場からの論議であれば、両者にそれほどの違いはないと思う。

 しかし、言葉から受ける印象とは保守と維新では余りにも違い過ぎます。では何故そのように違うのかと言えば、これはもう説明するまでもなく、その運動の激しさにあります。

 維新とは旧体制の全てを否定して、全く新しい体制を創り出すという意味では、その権力の移譲とは昨年夏の政権交代の比ではない。

 そのダイナミズムですが、維新運動は保守運動を大幅に上回る。目的は同じであっても、又同じ共通の価値観を認めあったとしても、その社会を変えていくという行動力の違いには歴然とした違いがある。

 我々はその意味では保守ではなく、まごうことなく維新者でありそれを望む。「語る運動」から「行動する運動」を掲げてきた我々は保守主義者と言うよりは維新者が似合っていると思います。

 ただ、維新という言葉が右翼の専売特許となってしまっている現状を嫌い、任侠右翼などとの差別化のために、自らを維新者ではなく革命家と自負する活動家も多い。

 そのことに関しては私も右翼という言葉を捨て、敢えて極右と名乗った経緯があるので理解できる。しかし、多くの国民の期待に応えるには、やはり維新という言葉こそ最適であると考えます。

 次回は尊皇攘夷と鎖国と開国などについても触れてみます。現代の維新とは江戸幕府末期の西欧からの侵略・植民地化への恐れではなく、実際に支那の人口侵略を受けているという認識が問われています。

☆お知らせ

 明日夕方頃、新年のご挨拶を生中継でおこないます。

 又、小沢民主党幹事長に対する検察庁の出頭要請、その後の事件の展開について大胆に予測してみたいと思います。連休明けから国会開催までの間に、果たして小沢民主党幹事長への強制捜査、指揮権発動はあるのか? そのことについて話をさせていただきます。

 ただ、長い間スティッカムを使用していないので、使用が上手く出来ない状態であれば、ユーチューブにUPさせていただきます。時間帯は明日ブログでお知らせ致します。


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2009年10月15日

政治活動・暴力と非暴力の狭間で

政治活動・暴力と非暴力の狭間で

 思想戦争という一面も考えなければならない。
 
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 先ずは新しいエントリーに入る前に、昨日のエントリーに200以上のコメントがありました。その多くがチャンネル桜とは争うことなく、出来れば左翼・反日勢力に対して、共に戦って欲しいという意見でした。

 我々は別にチャンネル桜側と争う考えなど毛頭ありません。相手側は我々から見れば大きな力を持っており、比較するほうが失礼というものでしょう。

 批判に対しては、沈黙することはないが、こちら側から敢えてこれ以上、意見を申し上げる必要はないと思うので、今回の件についてのこれ以上の意見の表明は致しません。

 ご心配を頂いた多くの皆様に、この場をお借りして感謝の意を申し上げると同時にお騒がせしたことに関してお詫びを申し上げておきます。

 さて、今朝のエントリーについて、又驚かれた方もいると思いますが、これは先に申し上げるなら暴力を是とするものではありません。

  これまで何度か書いてきたように、私自身は政治テロについては、これを今後一切容認しないという立場をこのブログで宣言しております。

 せと弘幸Blog『日本よ何処へ』:極右「テロ絶縁・非暴力宣言」
 
 最近になってブログを読み始めた人には是非読んで頂きたいものです。この決意の表明はネットの力を信じ、ネットによる日本の政治変革への希望を抱いたからでした。この信念は今でも変わるものではありません。

 では、何故今回「政治活動・暴力と非暴力」というエントリーを敢えて書くかと言えば、それは我々の「行動する保守運動」について、暴力的でならず者という執拗な批判を浴びせてくるものがいるからです。

 我々は左翼のように自らの目的のためには手段を正当化するような大衆を巻き込んだ革命論を主張したことは一度もない。マルクスは暴力によって社会を変えることを何とも思っていなかった。

 そのような左翼が今でも実権を握る国家が支那・中国であり北朝鮮というならず者国家です。よってこのような国家においては国民は共産党の一党独裁の下で暴力的に支配され、その圧政に苦しんでいる。

 民主主義社会において発言の自由が守られているのに、その全体主義体制の国家を批判することなく、チベット・東トルキスタンなどの民族虐殺問題を内政干渉となるので、批判しないなどと述べることは、暴力を容認する発言として厳しく断罪されなければならない。

 支那・中国問題の本質はそこにあるのです。我々の池袋における支那・中国人に対する批判活動は、左翼共産主義との思想戦争でもあるわけです。

 我々の活動を支那人排斥の民族差別活動として批判する人達に言いたいことは、この戦いの本質は<自由か共産か>という人類社会に課せられてきた根本的な問題があるということです。

 我々の活動を暴力的であると批判する人達は、今支那大陸で行なわれている巨大な殺戮を伴った暴力に対して、何故沈黙するのかに答えなくてはならない。

 政治活動、特に大変革を求める革命や維新の場合、暴力との関連について常に問題とされてきた。革命などで暴力を肯定する考えは西欧社会において論議されてきたと思います。

君主論/マキャベリ著 ... そう感じてしまうのは仕方がないのかなぁとか思ったりする昨今ですが、政治家には少なくともこの君主論を何度でも読んで、しっかりと現実の政治にフィードバックさせて欲しいのですが、残念ながら曲解しそうですな。

 戦いには二つの方法があることを承知しておかねばならない。第一は法による。第二は暴力による。第一の方法だけでは十分でないとなれば、暫くの間は第二の方法に頼らねばならぬこともある。

 又次のよう考えを説いた人もいます。
... ジュスト. 200年前、天使と呼ばれた革命家がいた. 1794年7月28日、フランス革命の若き指導者、サン ... その美貌と廉潔さ、妥協を許さない峻厳な理論と行動によって、「死の大天使」と呼ばれ、恐れられた青年の短くも鮮烈な生涯の軌跡をたどってみたいという有志が集い、1999年「サン=ジュスト研究会」が発足した。 ...

「人間の心は自然から暴力へ、暴力からモラルへ進む」

 自らが断頭台の上に上らなければならなかった彼は、革命と暴力について、この言葉を未来への希望として語った。

 これに対して、徹底的に暴力を否定したのはインドのマハトマ・ガンジーでした。「悪の手中の武器を善と愛と慈悲によってのみ無効とする。」

 我々はこの二つのことを常に考えておかねばならないと思います。暴力はいけないが、人間の本質はまた暴力的でもあるのです。これは人間的であるということでもあります。我々を暴力的だと批判する人達が、では自分達がガンジーと同様の立場であるのかと私は問いたい。

 又、暴力とは何も手を出す、足を出す、口汚く罵るという物理的なものだけではない。巨額な資金力・組織力を背景に行なわれる為政者の政治も時には暴力的であると批判されることもある。

 巨大なマスメディアの暴力だって、時には許しがたいものがある。そこから比べたら我々の行為などささやかなものに過ぎない。巨大な暴力に立ち向かう「覚悟や勇気」について語ることはあっても、それを組織的に振るったことなどない。

 最後になります。私は我々が採ってきた映像戦略そのものは素晴らしいと思うし、この映像を広めることがなかったら、我々「行動する運動」のこれほどの短期間における成長はなかったと思う一人です。

 しかし、ここに我々が注意をしなければならない問題もまたありました。それは映像がセンセーショナルなものとしてだけ捉えられ、基礎となるべき事実が隠れてしまっていることです。

 何故、そのような状況が作り出されてしまったのか?そのことをよりこれまで以上に言わなければならない。そうしないと我々が暴力的な存在でしかないという批判を跳ね返せないからです。

 いずれにしても今回の問題は敵対的な間における戦いよりも、より深い内面的な関係においても批判が起きることを知っただけでも十分でした。最初にしっかりと説明をしておかねばならないということも知りました。

 互いに一種の緊張状態・関係を維持しながら切磋琢磨して進むことも又大切なことかもしれません。又互いに理解し合えるときがいずれくるかも知れません。


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2009年10月14日

チャンネル桜関係者への反論

チャンネル桜関係者への反論

 迷惑をかけた覚えはありませんが?

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今朝おきてブログを見たら下記のようなコメントが一番先に目に付いた。

 水島さんは大迷惑してるよ。
桜にとってあんたがたはなんのメリットにもならない存在。それどころか大迷惑なんだからさ。

来ないでくれや。
Posted by 桜関係者 at 2009年10月14日 04:13

 何のことかと思ったら、チャンネル桜が17日に主催する大シンポジウムの告知が前に書かれていました。この告知はその前のエントリーの投稿欄でも見かけました。

 私がチャンネル桜関連の集まりに顔を出したことなど一度もありませんし、私が自らのブログでチャンネル桜の行事への参加を呼びかけたことは一度もありません。

 昨日のエントリーで確かに今週末ににおける「日本の自存自衛を取り戻す会」の告知をそのまま紹介したときにチャンネル桜関係の17日の行事も同時に紹介しています。

 ・西新井での瀬戸さん主催の街宣
・国会付近でのチャンネル桜主催のデモ
のいずれにも参加できるように設定してあるので、行き掛けの駄賃として下さい

 しかし、これは私の主催する街宣活動だけを紹介したのでは、問題があるので、そのままの文体で紹介しただけで、チャンネル桜主催のデモを消して、私のモノだけを残したらそれこそおかしな紹介と批判されたでしょう。

 さて、私はチャンネル桜を意識したことなど一度もなく、チャンネル桜とは全く立場を異にする存在であると思っています。だから相手方がどのように思っていようが全然気にも留めません。

 相手が迷惑と思うなら、それはそれで結構な話です。しかし、迷惑だと言う私のブログに、毎回毎回自分たちの主催する講演会やデモなどの告知を貼り付ける行為をどのように感じておられるのでしょう。

 そのようにご迷惑なら、少なくとも筋を通してチャンネル桜自らが支援者に対して、みっともないから、せと弘幸のブログへの告知はしないようにーとでも書いたらどうでしょう。

 さて、折角の「迷惑だ!」などというコメントが書かれていたので、何が迷惑なのかも含めて考えて見たい。そもそも全く別な団体で関係もないわけですから、迷惑などという発想が起きること事態が私には理解できない。

 おそらく相手が言いたいのは、自分達の行動と一緒に見なされるから・・・ということかも知れません。しかし、それは彼らの余りにも思い過ごしであって、同じように見られる訳がありません。

 確かにかつて西村修平氏はチャンネル桜と親交があったし、桜井誠氏もチャンネル桜の番組に出演しています。村田春樹氏は今でもチャンネル桜の番組に出演しています。

 だから水島社長にして見れば、同じように見られるのが嫌で、わざわざ発言しているのでしょう。

 チャンネル桜・水島社長「行動する保守」を批判

http://www.youtube.com/watch?v=vPeWRcWH8QM

 運動には様々な形態があって構わないと私は思います。又同じ仲間として行動していても、そこには考え方が全く同じであるということもありませんし、ただ大筋のところで一致して運動を行なっていれば問題はないと考えます。。

 そもそも他者を言葉汚く批判しなければ、自らの正当性を訴えられない運動こそ、本質的に弱い部分を持つと私は考えます。自らの運動に自信があるなら、他をあげつらわなくともそれは正当に評価されるのではないでしょうか?

 今回の水島社長が批判する部分に関しての私の考えは、これは売られた喧嘩を買ったまでのことです。その喧嘩の手法に意見をさしはさむ人もいますが、それは売られた人の判断で行なったことです。

 それについてとやかく言うことは当事者でない以上避けるべきです。これ以上言い続ければ喧嘩相手に味方する助っ人行為と見られても仕方がないですよーということを申し上げておきます。

 ここで我々の「語る運動」から「行動する運動」への新保守主義について述べておきます。私が皆様と共にこの運動を推進してきた理由に関して、これまで次のように書いてきました。

 私は参院選挙に出馬して訴えたが残念ながら結果を残せなかった。そのことが「行動する運動」の」原点となりました。

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 あの大敗北の中で、私が先ず思ったことが一つだけありました。
 我々が選挙を通して議席を得て、日本の社会を糾していくには、余りにも非力であり、それはこれから何回選挙をしても難しいだろうという正直な気持ちでした。

※前回選挙時よりは若干増えたので大敗北ということではないかも知れませんが、厳しく捉えていたという意味で使わさせて頂きました。

 しかし、諦めてはいけない。何とかしなくてはいけない。

 そのように思ったときに、私がふと思ったことは、先ず私の個人名を書いて投票してくださった1万5千人近い人々の存在でした。選挙活動の中で多くの方とお会いしましたが、予想を上回る人数でした。

 この人たちが投票箱に票を入れるだけでなく、我々と共に政治運動に直接タッチして頂くことが出来きないのだろうか。
 また、新風に投票した17万人の方が、この日本の現状をどのような思いで見つめているのだろうか。

 そう考えたときに、私は一つの決断を下しました。そこには何の迷いもありませんでした。

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 行動することによって、この国を変えたい。守りたい。ただそれだけのことです。そして我々はその「覚悟」を示して来たと自負しています。

 行動の指針として私は次の3つを掲げてきました。

1.外国人移民制度を阻止して日本の国体を守る

2.底辺社会からの搾取体制を変革する

3.議会制民主主義からの脱却

 これが私の掲げる「新保守主義」です。チャンネル桜の唱える保守主義とは全く違います。もし、相手との違いを主張するなら、喧嘩のレベルの話ではなく、その根底にある保守の理念と、それを生かす道筋こそ争点とすべきでしょう。


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