2024年08月05日

自叙伝

自叙伝

中々進まなかった

しかし書いてありました


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自分の昭和史(2)

 18歳から29歳頃までの時代

 私は高校を卒業後直ぐ農業従事者となった。普通であれば就職などで環境が変わって大変なのでしょうが、私の場合などは実家の農業を手伝うだけですから気楽なものでした。

 相変わらずのバイク好きで泊まりがけで遠くまで行くのが唯一の趣味のようなものでしたが、この頃から車の免許も取ったので今度は車を乗り回していた。

 この年、昭和45年(1970)の11月25日に三島由紀夫先生の事件が起きました。この時私はミッパの葉を川で洗って出荷する作業をしていた。当時の楽しみと言えば農作業中にラジオを聴くことぐらいでつけっぱなしでした。

 そこに飛び込んできたニュースでしたが、その時は余り衝撃は受けなかったが、翌日の朝刊には切腹した時に切り落とされたと思われる頭が映る写真が掲載されていた。

 何か胸騒ぎがしたことを今でも覚えています。その翌年にはもう農業を諦めてどこかに就職することにした。その理由は市街化区域に指定され、いずれ住宅開発地域になるので税金も高くなって農業をやれなくなるということで親父にも就職を奨められたからです。

 当時は何処でも働くことは出来ましたが、市役所のバイトがあったのでそこに応募して翌年には正式に公務員の試験を受けて合格し、市の職員となった。

 ここからが私の政治活動の始まりでした。本来なら公務員になれば政治活動は出来なくなります。しかし、それが逆になったのは危機感を抱いたからでした。

 公務員の職場は当時『社会主義協会』という社会党を支持する最左派の革命集団によって支配され、日本を如何に社会主義国にするために革命を起こすかが真剣に論じられていた。

 私は学生時代にヒトラーの英雄伝を読んでいたせいか、左翼マルクス主義者が大嫌いでした。こんな連中に日本の社会を牛耳られてはいけない。その時に心の底から彼らへの恐怖心と憎しみを感じた。

 もういても立ってもいられない毎日でした。本を買い漁り読み始めました。左翼は暴力革命路線を隠して議会制民主主義などと言っていたが、最終的には必ず暴力革命を訴えてくると思った。だからそれを阻止するには暴力を肯定する政治運動でしか対抗できないと思ったのも事実です。

 早速『ヒトラーナチス研究会』を自分一人で結成し、電柱にビラ貼りを深夜始めました。この頃はもし見つかって逮捕されたら大変ですので深夜か朝の4時頃にやりました。

 当時はガリ版刷りです。ペンキが手につくと落ちなくて苦労しました。今のように手軽にビラが作れる時代ではないので、本当に時間もかかりました。

 正直言ってほとんどビラを見て連絡を寄越す人はいなかった。しかし、ほんの数人ではあったが同志と呼ばれるような若者が集まった。私と同じ年代でした。ところが一人だけ年配者から連絡があった。

 非常に貧しい生活をしている人だった。もう何時壊れてもおかしくないあばら屋に夫婦で住んでいるご老人で、戦前は憲兵をしていたという方だった。実はこの方が歴史に非常に詳しく、また戦前の反ユダヤ運動にも参加しており、その道でも知られた人のようでした。

 この頃「ヒトラーの闘争」という本を書いた長沼博明という方に会いに行きました。この方とお会いしてから『日本学生会議』という団体から機関紙などが届くようになってより政治思想運動に興味を惹かれていった。

 この長沼先生に関して以前ネットで書いていたら、その身内の方から連絡を受けたことがあります。もうお亡くなりになっていました。膨大なヒトラー関連の資料は水害事故かで消失されたと記憶しています。

 私は自民党にもこの頃出入りしていました。当時自民党には各県連には駐在員という方がいた。大学を出たばかりの優秀な方で面倒を見てもらいました。

 当時は田中角栄が総理大臣の時で、列島改造ブームなどと称して非常に景気の良い時代だった。この頃の参院選挙で私は自民党の選挙手伝いもしていた。

 この昭和49年(1974)の参院選挙で糸山英太郎という実業家が全国区に出馬、私はこの人物の選挙を応援することにした。そのご縁で初めて右翼団体を知った。22歳の時でした。

 この右翼団体は『民族思想研究会』という団体で、この会の代表者の篠原節(たかし)氏が実はヒトラーの信奉者だった。運命の悪戯かも知れません。私は会ったその日に会員となりました。

 この団体は福島である程度拡大したが、問題を起こして撤退しました。残された一部の会員を私が引き継ぎ『憂国青年同志会』として新たに始めたのが24歳の時でした。

 この後、25歳の時に暴力事件を起こして逮捕され、懲戒免職となってその後は東京に出た。一時でしたが右翼活動からは離れて都内のどや街で過ごすことになりました。

 実は逮捕されて拘留されていた時に、ペンを持つ魅力に取り憑かれ、そのような働き口がないのか、大都市ならあるだろうという軽い気持ちでやって来たのです。

 しかし、たいした仕事に就くことは出来なかった。風俗系の雑誌のライターや総会屋が出版する雑誌に原稿を書く仕事くらいしかなかった。仕方なく福島に戻り福島県内の出版社に顔を出して、そこで原稿を書かせてもらうことになりました。

 ところが人生というものは実に不思議なもので地元福島でミニコミ新聞をやらないかという誘いをある方から受けて、その方に連れられてまた東京に行くことになりました。丁度27歳の終わりの頃だったと思います。

せと弘幸Blog『日本よ何処へ』:故三田和夫・読売OB記者魂

 右翼活動をまた再開したのは29歳になってからでした。この続きはまた後ほど書かせて頂きます。

驚きました今回過去のブログを読むと

異端の右翼という仲にこれまでの私の半生がありました。

助かりましたこれを参考に今後自叙伝を進めます。

桑原一真さんの所に20歳の若者が3名参加してきた。

その若者と勉強会を開こうと考えていたところでした。右翼とはな

にか?

左翼、右翼とは何か?共和国、君主国とは、どのように違うのか?

それを共に学びたい、今時20歳の若者がなぜ、右翼に興味を持つ

のか?実は私も興味がある。





Posted by the_radical_right at 06:45│Comments(4)mixiチェック
この記事へのコメント
せと様のガッツには頭が下がる思いです。その気高い志のお仲間が増えてくれたら、今の堕落した日本を救えるのかなと思います。応援しておりますぞ!因みに、せと様はご自分で右翼と仰いますが、小生からすれば、全然右翼ではなく、それが当たり前と思います。世論もそうなってほしいです!
Posted by 茶どら at 2024年08月05日 21:11
5
■ワクワク!

 『異端の右翼』。読みました!国家社会主義者・津久井龍雄氏の著書ですね。ただ自分は「社会主義」の語が大嫌いでしたので、その上に「国家」や「民族」がついてもあまりのめり込むことはありませんでした。
 
 瀬戸さんはその頃、『ユ○○人と世界革命 シ○○の議定書』(永淵一郎著)もお読みになりませんでしたか。ズバリですね(笑)。本当にこんなことあるのだろうかという感想を持ちました。
 
 左翼の回想録やらはゴロゴロあります。しかし右のものは滅多にありません。大変興味深く、ワクワクします。
※不適切用語の指摘がでます。わけわかりません。○で置き換えました。
Posted by のらくろ at 2024年08月05日 18:15
>公務員の職場は当時『社会主義協会』という社会党を支持する最左派の革命集団によって支配され、日本を如何に社会主義国にするために革命を起こすかが真剣に論じられていた。
公務員組織が左翼に支配されている図式は現在もさして変わりませんね。もし、公務員らの職場を観察できる機会があれば見てみたらいい、公務員労組の機関紙が目につきます、尤もこれはこれ一般公務員組織の話であって、流石に自衛隊・警察・海保には公務員労組の機関紙は存在しません。
そもそも「左翼」など前世紀の遺物であり絵空事です、現在の主要な敵は左翼ではなくグローバリズムと考えていい。
Posted by 市民 at 2024年08月05日 17:07
5
■興味津々!

 いやいや面白いです。 

 「社会主義協会」、社会党最悪の売国奴集団。この遭遇が、愛国者・瀬戸さん誕生の原点でしたか。
「日本学生会議」、当時の機関紙名は確か「ジャスコ」。後に「無窮」と改題。都の西北大学の國策研究会の学生が中心に発行。同研究会は当時の右派学生、民族派学生の最過激派とか。 
 三田氏の正論新聞は代々木駅前の書店で見かけ早速購入。これについては前にも書きました。
 興味尽きないお話しです。
Posted by のらくろ at 2024年08月05日 11:57

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