福島県を揺るがす

私は市内で怪文書を見つけた。
昭和53年9月頃でした「どこへ消えた200億円、暴かれたドラキュラ小針の正体」と書かれた文書でした。
怪文とは出所不明の文書であり、誰が書いているものか不明でした。
政商とか、怪商とも呼ばれる不可解な人物である。
しかし、その人物は福島交通、福島民報という、公共性の高い会社の社社長です。
私は興味を持ち調べ始め、その結果を書き始めた。
ルポルタージュというペラペラの裏表2面それを数百部刷り配ることにした。それが意外に好評で資金が寄せられた。
購読料一万円で私の口座に30万円が振り込まれた。
気をよくした私は本格的に調べて取材を始めたのがその直後。
昭和59年3月23日の朝日新聞の県内版に書かれたのは7日後です。
50億円の使途不明金がありその大半があると書かれてあった。
実はこの頃私のルポルタージュは、既に30回以上になり、この間、私が出す新聞は100部を超えていた。
マスコミ各社も報道し始め、私も報道特集なるテレビ番組に出演した。
昔はこの映像もありましたが、今はネットにはありません。
昭和53年からマスコミがこぞって報道する前の6年の間、私が何をして食べていたのか、それを疑問に思った人もいるかもしれません。
私はすぐにそのグループというか、リーダーの人とお会いした。それを紹介したのは、徐才喜の冤罪事件を掲載した、政経東北の社員でした。
この6年間、私は東京である雑誌『フリーライター』の編集部で働いていた。それが岩崎定夢氏という恩師の経営するフリーライター社です。
この先生とは長い付き合いとなります。
岩崎先生のところで働く前に私が勉強のために訪れていたのが、正論新聞を出していた、三田和夫先生です。
横井英樹襲撃事件で犯人隠避容疑により逮捕される。25日間を留置場ですごし帰宅する。当時の新聞で、自身が愚連隊の一味として書かれていたという。読売新聞を退社し、翌年に三田コン株式会社を設立するも、2年ほどで倒産してしまう。以後、フリージャーナリストになる。
1967年、株式会社正論新聞社を設立する。1968年2月、松本清張の小説『深層海流』に三田の『赤い広場―霞ヶ関』からの盗作が十数か所見られるとして松本を著作権侵害で告訴するが、同年7月不起訴処分となった。
以上
三田先生は、横井秀樹を襲撃した犯人を庇ったとして読売新聞を退社させられた。
私が三田先生の事務所に行くと、正論新聞が高く積まれていた。
この新聞を福島に戻ってばら撒けと少しばかりの経費を貰いばら撒いた。
三田事務所に戻って私のルポルタージを見てもらうと、次のように言われた。
新聞とは横タイトル、縦タイトルがあって、写真を一枚か二枚、後はどぎつい言葉で書く。
相手が自分が攻撃されて居ると分かればそれでよい、そこが重要なところだ。
なるほどと思った。
明日からまた現在の問題を取り上げます。