
選挙報道の馬鹿騒ぎの教訓が示す今こそ議会
制民主主義に決別する夏だ。
衆院解散総選挙が始まったが、やはり馬鹿騒ぎ以外の何物でもなく虚妄でしかない。心ある国民をして、このような感慨を抱かしめるような政治情況ばかりが次々と私達の前に現出してきた。
今朝「みのもんた・朝ズバ!」が放映されたが、各党の代表による討論番組に於いて、なぜか国民新党の紺谷典子副代表(エコノミスト)が同席を許されず、離れた席からの出演となった。
このことを彼女は討論番組の冒頭で強く抗議し、その理由を求めたが司会者も勿論同席した各党の代表達もニヤニヤするばかりで何も答えなかった。
この胡散臭さは何を意味するのだろうか?
国民新党が選挙互助会的な政党であり、そのために作られた政党であったとしても、そこには何がしかの期待や、腐敗する自民党に代わるべきナショナリズムの政党として育って欲しいという願望は国民の間に存在するのだ。
ところが、そのことを全く感じていないのが今日のマスメディアであり、その鈍感な触覚からしか、世間を凝視しえないくせに、自らは社会の木鐸とは笑えた存在でしかない。
そもそも国民新党が作られた経緯は明らかに今日の選挙制度の不平等にあるのに、それをマスコミが本気になって突いたことがあるのか。例えば選挙区における得票数の格差は放置され続けてきた。現在の選挙区から選ばれてきた人によって、定数是正が行われる筈がないのは火を見るより明らかだ。
小選挙区で落選したのに、比例区で当選というのも馬鹿げているではないか。それが「選挙制度」だからと許される。「刺客」などと言われるが、最初から相手を殺さず・(戦わず)とも自分は救命装置をつけているから安心なのだ。
小泉首相の唱える国民投票とはレトリックに過ぎない。いくら言葉巧みにそれを民意に問うと言っても、その結果参院で法案が可決される可能性はゼロに等しい。
それらのことをマスコミは遠慮がちにしか触れていない。しかしその点の誤魔化しこそが今回の選挙のいい加減さであるのだ。衆愚政治の“選挙戦”はテレビにとっては格好の視聴率稼ぎの機会でもある。
亀井や綿貫はたしかに「カッコウ」が悪い。テレビが主導する劇場型選挙とは「カッコウ」悪い方が負けるのである。その意味では勝敗は既に決している。しかし、「カッコウ」悪くても勝つ場合もある。相手は衆愚選挙のための集票マスコットとして担ぎ出されたに過ぎない。最期は本気さの勝負となろう。
議会制民主主義とは民意が最大限に発揮しゆる制度ではなかったか。国民の選ばれた代表が民意を問うとしても、民意がこのような大洪水のようなマスコミ報道の中で行われて、一体本当の意味での民意が汲み取られるものなのか。
どうでも良いことを書きすぎてしまった。選挙によって何が変わるのか。
郵政民営化が改革の本丸と言うが、それによって一体何がもたらされるのか。国民年金加入者の約一千万人が掛け金を払えなくなり、それは年々増加するばかりだ。国民の大半は経済的な苦境の中で喘いでいるのだ。
我々は議会制民主主義に絶望した若者に呼びかける。諸君達の受け入れ先は三つある。一つにはオウムやザインなどの如何わしい宗教団体。
一つには非合法左翼過激派集団。しかし、この二つは逃避であり将来性のない戦いである。
我々<極右>は希望を持った祖国改革への闘争を呼びかける。
新たな民族主義を掲げる新国家創造運動である。来たれ若人!
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