英雄待望の時代と極右誕生
反京さんへ
>瀬戸さんの主張される国家社会主義的な便法というのも、どうかと思われます。
国家社会主義イコール独裁ではありません。戦前の日本の国家社会主義者もドイツのナチスも議会制民主主義を否定していた訳ではありません。
挙国一致の戦時体制への移行によって翼賛政治体制となったものです。
>愚民に代わる強力な治者がプロレタリアート独裁である。
或いは民主集中と言い換えても良いかも知れませんが、
どのような末路を辿ったかは瀬戸さんも良くご存知でしょう。
社会主義、共産主義的手法を最初に唾棄すべきなのは言うまでもありません。左翼は言葉では民主主義を唱えていますが、彼らのいうプロレタリ独裁は民主主義を否定しています。
日本共産党も公明党も党首がどのようなプロセスで決定されているのか非常に判りずらいものがあります。
さて、私が主張する賢者による政治とは、強力な指導力を持った人間が選挙によって直接選ばれ政権を担うというものです。
私の持論は民衆を指導する政治には<英雄>の存在が不可欠というものです。
民主主義とは選び出すという一手法に過ぎない。大切なのは民衆がいかにすぐれた指導者を選びだせるかであり、英雄を育て上げることの出来ない政治ほどつまらなく退屈なものはない。
三郎さんへ
>「モラル」や「義務」や「責任」を強調する時代に来ていると思います。
そうですね、最近の若者はモラルがないと言う人もいます。しかし、これは何時の時代においてもその様な人はいたでしょう。今の時代だからとは言えないでしょうが、多くなったことは事実でしょう。
昔は躾が厳しかったが、今はそうやかましくなくなった事が関係しているかも知れません。
私は今日の時代を<英雄待望>の時代と位置づけました。
いくらモラルや義務や責任を求めた所で、若者がそれに素直に従うとは思えない。
若者が求めてやまないのは、自己犠牲を納得させられるだけの<英雄>の存在ではないでしょうか。
日本の社会は今真の変革の時期に来たのです。
これを果たすのには、一人一人の力を一つにまとめることの出来る個人の存在を超越した<英雄>の存在をおいては考えられません。
皆さんへ
私の小学校5年生頃の体験です。私はこの頃から英雄伝が大好きで図書館でよく読んでいました。当時生徒会長を選ぶには生徒全員が投票しました。
各クラスから立候補して選出されたのです。私はこの選挙に異議を申し立てました。
私は他のクラスの人のことはよく判らない。たぶん皆そうではないのか?
だったらよく理解している先生が選んでくれれば良いじゃないか、と質問しました。
先生方にはこっぴどく叱られたのを覚えている。民主主義とはこのようにやるものなのです、と説教された。
しかし、何も知らない者がただ人気投票で選ぶよりは、経験も見識もある大人が指名した方がわかり易いと最期まで納得しなかった。
今、大阪府の横山ノック知事や青島都知事の誕生を目の辺りにした時、あの子供時代の人気投票が我々世代の学んだ民主主義であったと納得させられるものがある。
民主主義は衆愚政治に陥り易い。幼少時代に教え込まれた民主主義は今や危機に瀕している。
>三郎さんへ
私は議会制民主主義や資本主義経済も歴史的な産物に過ぎないという立場です。
歴史的な一面における価値はあっても、それは永遠不滅な存在ではないという考えです。
それは常に政治の不安や経済の混迷という形で示されています。
自信を持って青年にモラルや義務や責任を語れるのは、政治家や実業家ではなく、全く違った人であるべきなのです。
また、それは机上の思想家でもなく、社会運動家という言葉で呼ばれる人間であると考えます。
勿論、政治家を否定するものではありません、しかし、今日の政治家は国民の信頼を裏切っており、国民も信用していません。
>三郎さんへ
私は極右の活動家であり、このことに自分の人生を賭けてきました。
わが国において極右とは言葉だけで、何らの政治勢力にも成り得ていません。
しかし、極めて少数であっても存在することに意義があると思っています。
共産中国などは日本における軍国主義の復活や極右勢力の台頭を口にしますが、どれ程本気なのかと笑ってしまいます。
彼らが日本の実情を知らない筈はありません。
しかし、我々が国会に一議席でも有したら、彼らは震撼することでしょう。
余り理不尽に日本を追いつめると、本当に日本に極右は誕生するでしょう。
そのことを彼らに分からせる意味においても、我々極右の存在は意味があることなのです。
反京さんは、2ちゃんねるでよくお見受けしました。 ブログランキング
また、ちゃちゃ思想板でも投稿されていました。 参加中
どのような方だったのか、興味がそそられました。
